本音で生きる勇気

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ひろゆき氏の言葉は、自分が子供の頃に思っていたことがたくさん詰まっている。また現代の大人の中にも同様に思っている人も多くいるだろう。しかし、それを声に出して実行している人はいないと思う。

ひろゆき氏の生き方ができれば、鬱なんて言葉も生まれなかったのではと思えて仕方がない。鬱のような症状は、筆者の両親の世代にもあったに違いない。今以上にあっただろうが、病気として診断されてもいなかっただろう。鬱という病名により、すがれるものが出来たのも事実と言える。

鬱という言葉を使うようになってから、鬱が原因で命を絶つということがニュースになるようになったと思う。筆者は心理学を専攻していたので、人間の感情が脳内分泌される化学物質によるものだということを知っている。分泌が異常になれば、感情も異なってくるというロジックがつながるだろう。

化学物質の分泌異常が起こるのには、何らかの医学的な要因があるのかもしれないが、原因は筆者には分からない。とはいえ、身内に鬱を患うものがいるので、どういう感情なのかを聞いてみたことがある。

回答は、

「恐怖を感じる」

とのこと。

多くが社会的、職場環境下での恐怖だ。

正直、自分自身鬱とは診断されていないが、この恐怖はいつも感じている。となれば、生きている人の多くが鬱であるとも言えるのではないだろうか。

  • 「~~~のように回答した場合、先方は憤慨されるのではないか」
  • 「今月また目標未達だな・・・」
  • 憤慨している顧客に対して、先方の要望に応じられない旨、電話にて伝えなければならない

など、鬱でなくても鬱になりそうな環境ばかりが揃っている。

ひろゆき氏の言うように、この内容が、そう思った時点で考えて風向きが変わるならば、悩みぬいてもいいが、コントロールできないことをどれだけ悩んでも事実は代えられない。

ピンチはチャンスという人も多いが、ピンチはピンチ、ピンチとして受け止め、長引かせずサクッと切り抜けるしかない。それが一番傷を浅くする方法だ。

努力と成功はイコールではない

努力と成功がイコールなら、誰しも同じ努力をし、同じ日数後に同じ成功が待っている。営業会議で言う売上予測が約束されているのと同じだ。しかし、成功を手にする人がほんの一部しかいないのは、努力の中でチャンスの波に乗れた人に限る。運も大事。

努力は無駄だと両断するつもりはないが、努力と思って邁進してきた筆者が事実、努力した人も努力しない人も二人とも成功した場合、努力しなかった人の方が明らかに成功効率がいい。努力に時間がかかれば、それだけのお金がかかる。努力をしたとはいいがたいが、労力を使わずに着実に成功を収める方法を見つけるのに時間を費やし、10年で成し遂げるところを2年でやり遂げた、となれば後者を評価する人は多い。

このやり方で自分のポリシーが許さないという人もいるかもしれないが、もし投資家がいるなら、短期間で大きく成長する人にお金を投じるのは何らおかしなことではない。

成功した多くの人が、自分が苦手な分野を克服することに時間を費やしてはいないと思う。できないことは、できる人に任せる。自分の長けているところだけに注力する。

日本の昔ながらの企業のいいところでもあり悪いところでもあるのは、人事異動が定期的にあるところ。最近はジョブ型になったのでなくなっているかもしれないが、まんべんなくかじらせる方法をとってきた。その中には苦手な分野を、NOと言えないから致し方なく数年の間従事した人も多くいるだろう。総合的な知見を得られるかもしれないが、専門外のことを長くやっても、その専門に強い人を凌ぐことは至難の業。であれば、少しでも興味があったり得意とする分野で、さらにスキルや知見を伸ばした方が、会社のためになる。

専門性に長け過ぎて周りが見えなくなると困る、という上司はいるかもしれないが、部下の立場からすると、仮に上司の思い描く人材が50人出来上がったとする。その50人が皆経営層に昇格するかと言えば、そんなに多くのポジションはない。選ばれるのは、せいぜい数名だ。47人ほどは、その背景にどれほどの我慢を乗り越え、心労を経験しながら選ばれるステージまで来た人でも、選ばれない時は選ばれないのだ。全ての選択には客観的エビデンスも使われるが、何よりも人が選ぶなら、感情が関わってくる。その人に選ばれるかどうかは、最後は運だろう。

このように、結果が何十年先に起きるとされるものにこそ、本気に努力すべきではないと思っている。20年もたてば2回ほど社会の情勢は大きく変わり、小さな変化であれば数えきれないほど、起きているはずだ。同時、求められていた人物像も20年の時を経て変わっている。見えないものに努力はすべきではない。

将来を考えるのはある意味で愚問

誤解のないように先に言っておきたいが、将来を考えることはいいことであるが、時代の流れが変わる前に自分の目で見届けられる将来にのみ、焦点を当てて欲しいと思っている。小さな夢みたいなものでいいと思う。

欲しい車があったとする。400万円します。200万の頭金を揃えたい。

  1. 月56000程を3年ためればたまる。→時間がかかる。200万の借金も残る
  2. 親から借りる→200万借金かもしれないが、利子がつかない可能性もある
  3. 銀行から頭金分を借りる→頭金借金、残り200万分も借金

3つの方法で直ぐに実現できる。車の例は、実現に数年かかる可能性もあるが、明日にでも実現でき可能性もある。こういう小さい将来を考えることは、問題解決能力を身につける意味で有益だと感じる。

次は、自分の子供を私立の小学校→私立中学→私立高校→国公立又は私立の一流大学→エリートへ、という将来を現実に向けて親が努力すると仮定する。正直、大学までは親のごり押しで何とかなる可能性がある。しかし、感情が関わることのため、いやいやでエリートになったか、本人もなりたいと思ってエリートになったか、全てを親の力でエリートになったか、自分で学費を稼いでエリートになったかで、最終的にどういうエリートになるかが決まる。狡猾で最終的に犯罪を犯す人がいても、犯罪を犯すまではエリートなみの頭脳明晰さだ。

同様にエリート社会人になったのち、地域社会のために貢献をしたり、様々な発展途上国に寄付をしたり、災害地域を支援したりなどを個人で行うエリートもいるかもしれない。いずれにせよ、最終ステージに向かうまでは、同じ道を歩んだエリートなのである。

前者のエリートになってしまった場合、親の努力が水の泡、という新聞の見出しとなるかもしれない。実現までに2つ以上の感情が絡む場合、その努力は、既に自分一人でコントロールできるものではなくなっている。そういう努力は、自分の落胆度を最小限に抑えるためにも、しない方がいいと思っている。

自分の子供だけがエリートでないと肩身の狭い思いをするという親御さんがいたとする。そういう親御さんは、子供のためを思っていても、二の次のはず。一番は、自分の心を満たすために、子供の生い立ちが自分の顔になってくれることを第一に考えていないだろうかを、もう一度振り返って考えて欲しい。学をつけてやれないなら、自分一人で這い上がる考え方を家庭で教えてあげるべきだ。

問題解決能力の教育

日本人は、問題を未然に防ぐ能力には長けているが、問題が起きてしまってから解決する能力が欠けていると思う。逆に海外では、問題はあるけど進め、問題となったら、その個所を修正していく方法が主流であるように思える。

外資系に働くようになり、自分の上司が海外支社の部長である場合、なんていう状況下で働いている中で、毎回思うことがある。

上司のITリテラシーの高さである。

日本で働いて日本の上司の元で働くと、上司が自分に使い方を聞き、教えることの方が多い中で、そんな自分が分からないことでも、自分より年上の上司が何でもこなせてしまうのが海外の常識であるように思える。

ITリテラシーが高い=それだけいじっている、という単純なことに過ぎない。分からない操作=Goole検索、これしかやっていないと思われる。日本のように研修なんて、相当の大企業でない限りない。

ひろゆき氏のいう努力型人間ではない、という特性は、海外の人にはよく当てはまる。労力を最小限にして利益を最大化する。自分が出来なければ、お金を払って雇い任せる。日本の場合、自分ができない→できる人を見つける→予算がないから雇いはしない→部下に覚えさせやらせる→部下のキャパオーバー→転職となっている気がする。

努力型人間ではないという姿勢は、怠慢ではなく、自分をよく理解していると取れる。自分自身を理解できているからこそ、何ができるかがはっきりしていて、確実な道を見つけられているのだと思う。もちろんそこには、何らかの問題可決策も本人なりに盛り込まれている。こういう考えに則っていれば、また、他人が気にならない性格に近づいていけば、より国は活性化されていくのではないかと考えている。