子育てと社員の成長
子育ても社員の教育も非常に似ているものがあるというのが筆者の持論です。上司や親の出来は、子供や社員の直近か先の未来の成長どちらかに良いか悪いかの影響を及ぼすと思っている。
親や上司がしっかりしているケース
ここでいう「しっかりしている」の定義は、上司や親が代わりにやってしまう、できてしまうケースを指します。このケースは、子供も社員も成長過程では、いわゆる「常識的な子供や社員」として成長していき、世間的には「よくできた方、または子供」と言われたりしていることが多いと思う。
親や上司のいいことを見ながら育つので、見よう見まねで成長を重ねていく。これがいいか悪いかは、受け側の考え方次第。
親や上司がしっかりしていないケース
ここでいう「しっかりしていない」の定義は、親であれば、最悪の場合はネグレクト、通常の場合は、「あまり子供に関わっていない」というケースを想定する。
以前、何かの記事で、幼稚園児と保育園児の違いは何か?という調査に応えていた幼児教育関係の人の回答を読んだことがある。
幼稚園児は、「一般的なことがしっかりできるけれど、精神面では弱い」というイメージで、保育園児は「勉強やタスクに関して、全体的にばらつきがあるが、精神的に強いイメージ」という回答だった。
保育園児と幼稚園児だと、親から離れている時間に差がある。そこが圧倒的な違いだと思う。親と離れている時間が長いからこそ、いなくてもいいような環境に慣れて育っていくのかなと感じている。
筆者は、兄がおり、兄は幼稚園、筆者は、最初は幼稚園で、その後保育園を2年ほど経験している。兄との違いは、上述の通り精神力。
兄は、アカデミックの出来が良かったわけではないが、本番に強く、受験も到底いけなそうな高い偏差値のところでも、なぜか本番では合格するという偉業を高校で成し遂げる。
大学は、相応の偏差値の大学へ行くが、そこでは学部首席で卒業する。その後、就職活動では、いくつも受けることなく、すぐに内定をもらった。
転職は4回したが、2回目に行った会社が結果的に一番長い。3番目に行った会社では、すぐに精神を病み、2回目の会社から戻ってきたらポジションあるよ、と言われ戻った。そこで長期に亘り就労をしている。
その企業でも結局は、顧客の理不尽なクレーム処理がきっかけで精神を病む。その後、家庭の事情でさらに精神の病み度は重くなった。幸い2個目の企業は、精神を患っていることを理解した上で雇い続けてくれた。それは、何度も表彰されるほどの業績を収めていたからである。
ところが、その企業が買収されたことを機にレイオフの対象になり長期に亘り働き続けたその企業を退職することになった。
もちろん、次の会社はすぐに決まったが、精神が病んでいるため、1~2ヶ月ほどで自分から退職をした。
一度、しんどい、ってどういう状態なの?って聞いたことがある。回答は、「恐怖」とのこと。「どんな恐怖なの?」と聞くと
- なんかざわざわする(まるで雑音を聞くような感じ)
- 自分がこうしたら、相手はこう反応するのだろうか?その反応が恐怖
正直2に関しては、営業マンだったら誰でもありそうな気もする。寧ろ、怒られることが常の営業マンなので、それが鬱と診断されるじょうたいなんだ、と不思議に思った。もしこれが鬱なら、鬱と診断されていない鬱状態の人は、人口の80%くらいいるんじゃないかなと思う。
夫婦間で同様に思っている人もいるし、子供でも親や教師や友人に対して恐怖を感じているだろうし。
一方、筆者は、挫折ばかりの人生だった。
所謂受験や就職、転職などの転機では、確実に悪い方の結果が出る。
高校受験は、希望するところは全て落ち、ぎりぎり進学校とされて公立へ進学
大学受験は、現役時代は全て不合格
一浪でも、全て不合格
勉強ばかりしていてこの結果だったので、母が「あなたって、頭良くないのかなあ」とぼそりと心配そうにつぶやいたことがある。あれだけ勉強していて、結果全て不合格っていうのが考えられないくらい勉強してたわよと。
ここで、人生の転機が訪れる。
父の勧めで米国へ留学することを勧められた。それが2月。まだ第一希望の合格発表前だったが、「恐らく不合格だよ。日本で認められなかったんだから、海外を見てみよう。幸い英語は凄い出来るんだから」
そこで大学に関して調査を開始し5月には渡米をしていた。実に早い決断だった。
確かに英語には自信があったが、会話やリスニングは全くだった。渡米後の学生寮の手続きでは、英語が通じず、鍵を貰うのも四苦八苦だった。
米国での試練は、退学の警告を受けたことだ。あと3学期中に成績を一定レベルまで上げないと自動的に退学だというもの。そこで美術やダンスといった必修ではない科目でEasy Aが取れる科目を取った。これが見事に全てA。これが成績を上げるいい機会となり、無事に卒業を迎えた。
就職にあたり、次の試練が訪れる。秋に米国で行われる留学生向けの就職面接会で、これもまた全滅。その年の冬休みに東京で実施されるものにも参加し、これも全滅。夏にもあったが、その前に卒業を迎えてしまう。
そこで思い切ってアメリカに残る決断をした。アメリカで仕事を探しが、就労ビザをサポートしてくれる企業に全く恵まれない。このビザがないというだけで全て門前払いを受けた。
運よく、大使館でビザをサポートしてくれる(Aビザ)という話があり面接を受けたら受かった。Aビザは、半永久的に更新が出来るのである意味永住権に近い。こんないい話はない、と当時思って働いていた。
しかし、ここでも新たな試練が訪れる。外務省からの指示で、永住権を持っていない人の雇用が止められたのだ。当時は、911のテロもあった時期でもあったので、そういうのも懸念材料にあったのかもしれない。上司からは、不本意だが他を探してもらいたいと告げられ、退職をした。
ちょっとラッキーだったのは、ここで拾う神が現れた。大使館の中には、外務省が支援している世界各国にある日本人学校の事務所があった。簡単に言うと、現地校を週末借りて、日本の教科書を使用して、駐在の子供たちが帰国後、問題なく日本の授業についていけるようにサポートする学校である。大学を卒業さえしていれば誰でも教える資格を得られ、筆者もそこに入れてもらえたのだ。勿論、ビザのサポートもしてくれた。
ここは週末しかない仕事なので、同時に平日の仕事を探したが、見つかるまで1年半かかった。その間は、友人の家に居候状態だった。
平日の仕事は、現地のゲーム開発会社。なんとこちらが弁護士を雇う側だったが、ビザのサポートに前向きだった。その時の弁護士も良心的で、支払いを分割にしてくれた。晴れて平日の仕事を手に入れ、安定した仕事につけたのも、大学を卒業してから実に4年が経過していた。
この会社で暫く経験を積み上を目指そうと考えていた。自分もゲームが好きだったからだ。3年目が始まったころ、買収の話が舞い込んできた。大手ゲーム会社がその会社を買収するというのだ。
オーナー企業だったが、200人ほどの従業員がいる、それなりの規模の会社だった。当時注目されていたオンラインのRPGゲームの開発をしていた会社で、大企業がまだそのノウハウを十分に把握できていなかった時代。手っ取り早く中小を買取り、将来のリスクごと刈り取ろうという計算だったと思う。
社員の懸念通り、必要としていたのは、ゲームのタイトルと一部のプログラマーや技術者だけ。予想通りに筆者が働いていたサポート部署は、買収側のサポートチームが担うことになり完全に解散。そこで筆者の退職が決まった。
当時は、もう結婚もしていたので、何でもいいから仕事を見つける必要があった。そこで見つけたのが、食品卸の営業だ。
この仕事がきっかけで、筆者の今のポジションがあることになる。
大学を2000年に卒業して実に7年が経過していた。この仕事からあまり会社には恵まれず、不遇の年月を2013年まで経験した。その間に、離婚も経験、アメリカを引き上げる、パワハラを受ける、など様々だ。
2013年を機に日本へ帰国。年齢も37歳に達していた。そこから現職にいたるまで4回転職している。現職は9個目の企業となる。もう転職の数が多いと履歴書を受け取らない日本の企業など怖くない。どれだけ蹴られようが、雇う企業はある、というのがFACTだ。勿論、どれもが優良企業とはかぎらないが。
もう100社なんてとうに蹴られている。応募が出来なくなるほど、応募して不採用を貰ってきている。負け癖というよりは、不採用が気にならないようになった。
よく採用されるために、こうした方がいいという記事を読むが、結局、その内容が、自分に合わないものだと、採用されてからボロがでて、結局会社には入ずらくなる。譲れないところは、絶対に譲らない転職活動が何よりも大事だ。
もう一度いうが、必ず採用してくれるところが現れる。
このように、挫折を繰り返すと、挫折は日常になり、痛みも軽症で済むようになる。帰国してからもパワハラも何度も受けたし、レイオフに近く自主退職まで追い詰められたことも何度もある。結局、企業はそういうものだ。存続を犠牲には出来ない。社員を救うことは極論出来ないのだ。
だから、そういう時期が来た場合、退職を打診された場合は、企業はあなたを必要としないと決断したととり、次の動きを出来るだけ早くとることが重要となる。
正直、挫折を何度も味わい、次のスタートが直ぐに切れるようになったとはいえ、挫折を感じた時の落ち込みは深い。言い換えると、寝れば忘れられるような度胸が備わっただけだ。
筆者は次男坊だが、長男と比較して、親から手をかけてもらった経験は少ない。兄も面倒見がよかったから、子供だけで成長していったようなものだ。学校のことに親もかかわったことはないし、勉強を教えてもらったことも父から何度かあっただけで、遊んだ経験もない。
記憶に残っているのは、父が関わらない分、母は何とか関わろうとはしてくれた。しかし、当時の貧乏な生活の中では、共働きで母も働きづめだった。
要点は、ここ。
当時、子供に与えたくても、与えるものが何もなかった。与えたものを子供が拒否しても、代替品があるわけでもなく、諦めるしかなかった。だから、子供は自分で考えるようになる。
きちんとした子育てをしない、というのは決して怠けろ、と言っているわけではない。ないものを無理して手に入れて子供に与えても、子供にとってはそれほど重要ではない。手にした時点で喜びMAXになるだけで、貰ったしなものや経験に感謝する程の価値を求めてはいないのだ。
寧ろ、きちんとした子育てに拘り、出来ない自分に自己嫌悪を感じ鬱やノイローゼになる方が良くない。親の精神的健康を保っておくことが、子供にとっては必要な要素だ。
子供が言うことを聞かないのは、子供に信頼されている証拠。もし子供が恐怖で支配されていれば、言うことは聞くかもしれないが、親に対しては不安しか抱いていない。大人もそうで、わがままを言う人は、その相手がわがままを聞いてくれるという信頼感を抱いている。知らない人には、わがままを遠慮するものだ。
また子供が自分に対してわがままばかりを言っているからと言って、外でも同じようにふるまっているとは限らない。同様に、家で振る舞いがいいからと言って、外で振る舞いがいいとも限らない。全く別物だ。
家で行儀のよい子供がなぜその態度をとっているかは、親も考えるべきだ。子供は、元来、わがままで、言うことを聞かない、好き勝手なことをいい、身勝手で純粋が故に残酷であるのが普通であり、それが子供らしい振る舞いである。
もし、そういう振る舞いが全くなく、口数も少なく行儀が良すぎると感じた時は、親の厳しさが度を越えている可能性を疑った方がいい。
筆者は、教員もしていたことがあるので、子供の本当の姿と、親によって演じている偽りの姿を多く見てきた。行儀がいいことに親は鼻高々だが、そう思っていられるのは、子供が親に逆らっても適わない年齢の時だけである。
ひとたびその年齢を過ぎれば、親はもう匙を投げるはずである。しかし、その時に考え直しても遅いのだ。子供は親が叶えられなかった夢を叶えるロボットではない。親の持つDNA+環境の影響の範疇でしか能力を発揮できないものである。自分のDNA以上のものを子供に託すのは残酷である。子供は必ず潰れる。
社員も同じである。自分が見せられないことを求めるのは残酷だ。もともとできる人であれば問題はないが、もともとできなかった上に上司も出来ないのに、口だけでただやれというのは無責任というものだ。
冒頭で述べた親がしっかりしているケースの場合、その影響が成人後にやってくる。親を見習い、順風満帆にとんとん拍子で人生の階段を上ってきた人は、一度の挫折の深さが地獄にいるように感じ、何で自分だけがこんな思いをという考え方をするものである。
それは、何でも吸収できる時期に、人生の辛い部分を経験させてやれなかった親の責任でもある。勝てる試合しかしてきていないボクサーが、勝てるかどうか分からない試合を受けなければならない時の不安といったらないだろう。初の負けから立ち直るのは難しい。
だから、親であっても、それはできない、という中途半端さが子供を逆にプラスにもマイナスにも人生に陥ったときに対応できる人間になることでしょう。