母から受け継がれる子の精神力

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 波乱万丈の人生

波乱万丈の人生で最後にポジティブに追われる人と最後まで波乱万丈のまま苦しく終わる人の差は一体何だろう。偏に信念と真摯なふるまいだと思う。

彼女のように暴力を受け続けても尚、信念を持ち続けることは、相当な精神力が必要と思われる。また自分がどん底で心にゆとりがなければ、子供にあたってしまうというのも非常に理解できることだ。しかし、彼女は子供には起こることはなかった。

優しく、正直で、思慮があり、礼儀正しい。そして独立していて、一生懸命働き、正しいことをする。子供たちを、人間として扱い、怒ることもせず、勉強しろとも言わなかった。勉強、宿題をするのも子供たちの責任で、親として関与しなかった。”

これは、教員を経験した筆者も全く同じように思う。筆者は、教育委員会の下で働くいわゆる正規の教員ではなかったが、海外駐在の子供教える大学さえ卒業していれば、その資格を有するいわゆるアルバイト教員だった。

大きく分けて3種類の子供がいた。

  1. 優等生過ぎる子供。こちらから聞かないとあまり話さない。
  2. 勉強もできて先生の言う事には忠実。でも実は私の本当の姿は違うんですというオーラを出している子供。こちらから聞かないとあまり話さない。
  3. 勉強も十分できるか本当はできるけど率先してその能力を発揮しないが、自分からも話をしてくる活発な生徒

1が一番印象が薄くなってしまう。通信簿をつける際、ABC判定は、すぐAをつけられるが所見を書くのに苦労をしてしまうほど、印象が薄い。つまり、出来過ぎるがゆえにかかわりが薄くなっている生徒だ。

2は、親のエゴの犠牲になっているSOSを発している生徒。両親又は片方の親が自分でも叶えられなかった夢を子供に押し付けるタイプ。テレビを見せない、バイオリンを習わせる、など一見すると非常に上級社会の生活、宮廷の生活の現代版のように見えるかもしれないが、相手は子供だ。友達と普通に遊び、普通の生活を享受したいと思っているだけ。

学校に行けばTVの話題があるが、自分はその話題には乗れない。友達と遊びたいがバイオリンの時間が多く遊ぶことはできない。子供自身が子供ながらにバイオリニストになりたいという夢を小さい頃から持ち、本人が希望して習っているならまだしも、親の自己満足で習わされている。親は周囲には、うちはバイオリンを習わせていて、などと言えることが親の心を満たしているのだ。

筆者は、その子供を5年生の時に担任を受け持った。勉強は基本的に出来る。米国で生まれ日本語が弱いにも関わらず、日本語での授業の内容にはついていけている。ただ5年生の時点では、何とかついていけているという感じだった。

筆者のクラスでは、テストはルール上受けさせたが、先生に聞けば答えを導き出せるところまで助けた。つまりテストではない。そのテストを受ける時に、自分の頭で考えることさえできれば本来の勉強は完結している。そもそも、勉強は永久に続くものなのになぜテストするのだろうか?なぜ暗記しないといけないのか?資料で調べて答えを見つけることの方が何倍も勉強、研究と言える。

この生徒のお母さんは、本当に勘違いをしていた。筆者は、担任を持った当時、登校拒否をしている生徒がいた。小5で既に登校拒否だ。その子が来てもらえるよう、他のクラストは違うことをし続けた。

  1. 2コマ連続の同科目の授業の1コマを面白い話で教科書からは教えてもらえないクラスを展開
  2. 宿題は最小限(ドリル1ページくらいかなし)
  3. 教科書は使わず、毎回プリント学習

1で続けたのは、テストの珍回答、というのをインターネットで検索で見つけ、スケッチブックを使ってフリップ形式で

問題→本来の正解→珍回答

という順番でフリップしていく。珍回答の個所で生徒が爆笑するというパターンだ。

この学校に来ている子供たちは、土曜日の学校だった。平日は現地校に通い、その宿題が膨大にでる。それに加えて土曜スクールが詰め込みで宿題が沢山出たとすれば、生徒はパンクする。小学生であれば、まだ体を動かして遊びたい時期だ。そんな時期に学校はしんどい場所という印象を与えなくなかった。

だから、筆者のクラスでなければ体験できないことを毎週探していた時に珍回答に出会った。この珍回答をきっかけに、どこからか話を聞きつけた登校拒否の生徒が来るようになった。勉強をすることは少なかったが、それでよかった。学校は勉強をするところではなく社交性を身に着けるところだと学んでくれるだけで充分だった。

海外の日本人学校の生徒の多くは、漢字が苦手だ。だから、漢字の宿題や小テストが嫌いだった。とは言え、日本に帰国する子供は知っていた方がいいので、何とかして漢字を好きになってもらいたかった。そこで、漢字のドリルにマンガのキャラクターを貼り付けてコピーをして、少しでも楽しんでもらおうと考えた。

これに低俗と文句を言ってきたのが、上でいう2の生徒のお母さんだった。そのお母さんは、マンガを低俗とくくっている。その内容は関係ない。

しかし、海外で生活する子供にとってのマンガは、国語の助けになるくらい、日本語を読むモチベーションをくれる。現にマンガを読む子供の多くが日本語に長けていた。アメリカで生まれ、マンガも読まない子供は、日本語を話すのが4年生の時点で困難になっているし、喧嘩する時は英語になるほど、英語ベースなのだ。2の子供も同じ。アメリカで生まれた子供程、マンガは読んでもらいたかった。

学校の先生の全てがマンガを禁止していたのだが、日本にある学校ではないのだから、日本語に興味を持たせるモチベーションドライバーとしてマンガを許すべきだと筆者は思っていた。授業中には読まないで、貸し借りするならそれだけにして下さい、と伝え、それ以上関与はしなかった。

宿題は最小限かなし

宿題は、今でも必要かどうか考えているもののひとつである。子供は、宿題がなければ勉強はしない子供の方が多いけれど、大人だって寝てしまえば勉強した内容の多くを忘れてしまう。勉強した内容を見返して、課題を解いていくのは会社でも同じだ。

よく営業マンなら自分の売上を暗記しておけという体育会系の上司がいたと思うが、今の時代覚えていたからなんだというんだと思う。毎回PCを開いてその時にいくらか、何%達成しているかが確認できれば、それで十分だと思う。暗記を求める教師や上司で出来る人間を見たことはない。営業マンのレベルだと有能だが、上司になると全く機能しない上司になる。

もう一つ、宿題を出していた唯一の理由は、両親の心配を払拭するためだ。宿題は、子供にどんな課題を与えたらいいか分からない、あるいは一緒に勉強をしていない親にとって自動的に勉強させられる便利なツールなのだ。子供の勉強に関して自ら協力する親御さんは、宿題の存在があろうがなかろうが気にならないはず。勿論、無関心の親も気にしないが。。。

教科書を使わずプリント学習をしたのは、当時の内容が薄すぎたからだ。私は一コマを面白い話に使ったが、一コマは塾レベルのプリントを1問解く時間とした。プリントだと全員が配布された時に初めて見る内容になり、スタート地点が同じで公平だ。

教えていた強化は算数と社会だった。算数は、塾レベルの問題をプリントで見せて、知っている知識だけでどう解けるかを教えた。

社会は、教科書の内容も一般的な知識として役には立つを思ったけど、社会の教科書を進めていくと、必ず生徒が退屈していた。そこで、45分ほど続く授業の中にも、自分の経験した話をどんどん投入していった。

例えば、交通渋滞の内容が教科書に載っていたとすると、「交通渋滞と言えば、この間、凄い奇跡的な渋滞での出来事があってね」と実話を投入すると、今まで立てひじをついて聞いていた生徒が前のめりになってくる。

作り話でない話なので、生徒は爆笑しながら聞きたがる。ここで大事なのは、多少の誇張力が大事。それと奇抜な話術。教師は、一点を見つめられる時点で芸人の漫才と似ている。

筆者は、教員時代の話術を勉強するために、当時人気のあった「ダウンタウンのごっつええ感じ」を3倍速で6時間分ビデオに録り、アメリカに持ってきた。それをビデオが擦れるまで見続けた。見る時もあれば、BGMとして惰性に流している時もあった。とにかく、家にいる時は音楽よりダウンタウンというのが何年も続いた。

筆者が学んだのは、彼らが話す会話の中で落ちのタイミング、同じ言葉話すにしても、話すタイミングの何秒かの間の違いで、笑いの大きさは大きく変わる。この勉強のお陰で、教員に関わらず、誰と話しても役に立っている。

間は、人を惹きつける。笑い話でなくても、真剣な話でも、プレゼンの上手な人は好い間を持っている。

教師はサポート、教育の礎は家庭

 

多くの親御さんが、学校が勉強するところと思っている。教育委員会のサポートの下で教職をした人間からすると

  1. テストでいい点を取りたい勉強は塾
  2. 社交性を学びたいなら学校

と思っている。

塾と学校とで明らかに違うのは、昼休みに友達と遊ぶ、昼食を食べる、部活、体育祭、文化祭、など集団での関わり合いを学ぶところだ。

教育に関して色々クレームを言う保護者は多いと思うが、その前に、その子供の教育をする場所は家庭であることを忘れないで欲しい。学校では、各家庭で子供に望む将来を確実に約束する場所ではなく、社会に出るにあたり最低限の社交性を身に着ける場所です。

親によっては、OOな常識を持ってもらいたい、と思っていると思うが、常識こそ家庭で教えるもの。日本では、よく「常識的にいって考えられない」という言葉をよく耳にする。米国に17年住んだ自分としては、常識という言葉で世の中の考え方をまとめられる日本は素晴らしく教育された国だと実感した。

アメリカにいれば、常識の数は家庭の数だけあることに気が付かされる。常識は、ある集団が同じような考え方を持っているから成立する考え方。アメリカのように個性を持つことを奨励する国は、日本の考え方からすると、いいことも悪いこと常識外れだ。

お金持ちの青天井感っていったら常識の範囲を超えている。

日本がなぜ常識的で、悪い意味で常識から外れることが出来ないか、という問いの答えとして、筆者としては、抑圧されてきた文化的背景や家庭での教育があると思う。

アメリカは、勉強しなさい!とうるさい国かと問われると、その家庭に暮らしたことがないから分からない。ただ、あれだけの宿題が出ると、勉強をせざるを得ない。しかも、アメリカでは、クラス中に発言することを求められるのに対し、日本では黙って聞いてノートをとっていることを求められる。黙ってていいなら、予習しておく必要もない。

アメリカでESLのクラスを受けた時に宿題をしていないといけない理由が分かった。文学作品を教材として使用するが、クラスは先生との対話形式になる。それが全て本に書いてある内容を問う質問になっている。それを生徒は答えていくのだ。

日本の国語の授業で教科書を読まされたが、あれは手抜き授業だと思う。あと黒板に書き過ぎだった。どうしても板書を書き写すノートを如何に綺麗に書くかに拘っていた。先生によっては、その綺麗さを皆の前で紹介する先生さえいた。だからこそ、綺麗にノートを書き写すことが正しいことだと思った。

大学に行き色々な人にあったが、頭のいい人ほど、字は汚くノートテイキングは最小限だった。大学時代から頭のいい人は既にその時期に分かっていたことだと思うが、筆者はノートテイキングが追い付かないと思っていた。それもそのはず、書き過ぎだからだ。

社会人になって、商談の際に用意して欲しいものを言われた際、それだけをメモするようになったが、要するにそういう事なんだろうな、と。学校や塾の先生が話していた話で既に分かっていることは書かず、10分の話の中で要するにこういうことと書いておくだけで充分だということ。

記述の入試問題が苦手だったが、それは話の大局を分かっていなかったからかけなかったのだ。話の対局が分かっていれば記述式は簡単だし、自分も入試でどこかは受かっていたかもしれない。結局全てに落ちたことでアメリカに行くことができたから結果オーライなのかもしれないけど。

今思うと、自分の親が勉強に関わってくれたことはない。勉強やれとはさんざん言われ、中堅大学を受けるというだけで、「だめだ、あんな馬鹿学校!」と一蹴されるだけだった。だから背伸びをして受けることになった。偏差値が圧倒的に足りていないのに受けた。勿論、全部落ちたが、精神的にそうする方向に追い詰められたとも言えるが、精神的にそれに抗うだけの強さも持ち合わせていなった。

仮に家で、ノートテイキングは、必要最小限のことだけ書けばいい、ノートは自分が分かるように書いてあれば汚くてもいい、自分で決めた方向に全面的にサポートするという教えであれば、今の自分も変わっていたことは間違いない。

抑制された学生時代

学生時代を振り返ると、パッと思いついて言えることは抑制されていたという記憶だ。自分は音楽をやっていたが、止めろ!と言われ続け、言われるがゆえにもっと続けてしまっていた。バンドにはお金がかかり、そのお金をバイトで稼いだが、そのバイト先にも電話をされ、本日をもって辞めることにしましたので、と雇用主に電話をされて辞めざるを得なくなった。

そういう強制的な方向転換をさせられた自分だったが、蓋を開けてみたら、現役で全部不合格、一浪で全て不合格という結果だった。自分が決めたことを否定される日々が何年も続きそれが普通と思うようになって、自分の意見を言わないようになってきた。自分がこういったら相手はこう返してくるだろうな、と思うことが強くなり、社会人になっても言いたいことや、やりたいことをやらなくなった。

言い訳と言えば言い訳になるかもしれないが、少なくとも最初からそういう人間だったわけでもなかった。小学校低学年の時から、自分にしか作れないものを作る性格だった。

凧作りをするが、作ったのは皆が作っていない、一番難しい凧を作った。上がらない凧になったが、竹を曲げるやり方が分からなかった自分に、先生が黙ってストーブの上に置いてあるお湯の前に連れてこられ、竹の棒をおもむろに入れ曲げ始めた。目から鱗で、こんなに簡単に曲げられるんだ?と思った。同時に、皆と違うことをしたおかげで、知識が増えたんだと思った。

社会人になり、アメリカで色々な人に出会った。アメリカでは、厳しい父親もいるかもしれないが、平均的にやりたいことを実現するよう応援してくれる文化をもった家庭が多いと思う。馬鹿げた夢でもやってみろというし、アメフトのキッズの習い事なんか、子供より大人の方が興奮をしているコミュニティーがある。常に子供に関心を持っている光景を見ることは多かった。それが羨ましかった。

ただそんな父と母から受け継いだものがある。それはTOPを目指す資質だ。父は平から経営者まで上り詰めたが、政治が嫌いな性格だった。とにかくつまらない程まじめな人間だったが、仕事に関しては正しいことをして業績を黒字に帰るFIXERだった。

母は、人に慕われるリーダー資質だった。父と同じく正しいことをして実現する人だった。父が正しいことをして周囲に疎まれる反面、母は正しいことをして上から気に入られる性格だった。どちらも精神力が強かった。それを受け継いだ。

母は70を超えても尚、仕事をしている。引っ越しのエプロンの仕事だが、Google MaPを駆使して、分からないことはネットで調べて働くエネルギッシュな母だ。子供は、母からの影響を大きく受けると感じている。だから世の中の母親は、子供に強さを求めるなら、自分が強くあることに努めて欲しいと思う。

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