優等生程リスクがある

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アダルトチルドレン

教員をしていた経験から、優等生程所見を書きにくい傾向にある。授業では、静かで何でもこちらの言うことに従い、勉強もできる。テストはいつもいい点数か100点で、いい子であるが故に、教員が気にかけなくてもそつなくこなせてしまう。教員は、その分、手のかかる生徒に時間を割くことが多くなる。ますます、優等生との関りがすくなくなる。

優等生だと、気に掛けることが教師側からも少なくなってしまい、本当に抱えている問題に気が付いてやれなくなることが多いのだ。優等生が故に、自分が悩みを抱えていることも口に出せないでいたりする。

私は、子供で言うことを聞かなかったり、手が焼けるほど安心している。非常に子供っぽさがあるからである。それに問題が分かりやすいため、どこに気をかけたらいいのかが分かりやすいからである。さらに問題があればあるほど、欠点も分かるし、手がかかっている分、関わっている時間も多い。分かり合える可能性が高いのである。

勿論、手がかかればかかるほど大人側のストレスは多くなるが、ストレスのない子育て程、将来的にリスクを負うものはない。ビジネスと一緒だ。ストレスのないビジネスは、殿様商売になりかねなく、競合がいないためサービスの向上もない。ストレスがあればあるほど、サービスはよくなるのである。

子育てノイローゼ

子育てのノイローゼになる親もいると思う。ノイローゼというとネガティブなイメージが強いが、正直子育てノイローゼになるということは、それだけ子供に対して真摯に向き合っているという証拠と取っている。子供にとって完璧な子育てをしてあげたい、と思えば思うほど、上手くいかないからノイローゼになってしまうのだ。

子育てには、それなりに鈍感さも必要だし、放っておけるONとOFFをつけられる人の方が上手くいったりするのだ。恐らく子供に考させてあげないと、と思っている人程、ノイローゼになるだろう。同様にその親の期待に応えようとして出来上がってしまうのが、アダルトチルドレンだ。子育てに必要な要素は、期待をしないということだ。

子供は、本当に大人が教えていないことをどこかで学ぶ。昔は、親の会話、TVや学校、今では、親の会話、TV、学校、YoutubeSNSと学べる場所は増えてきている。筆者の長女も、幼稚園にまだ通っていない。TVは民放の電波を持っていないので民放を見ることが出来ない。BSだけでは、子供が見れる番組などないに等しい。

その中で、「えっ、そんなこと知っているんだ?」と思うことを口にする。驚くが、子供が口にすることは、親が口にすることを多く吸収している。それは、子供に対して使った言葉ではなく、夫婦だけでの会話で使った言葉でも吸収している。

いじめが日本では多い。最近の統計では、小学生に顕著に増えているという。いじめは元々大人の世界で起きていたこと。会社に行くと、いじめに近い社員の扱いをしている上司がいる。これが子供に感染したのが、子供のいじめだ。つまり、いじめっ子の親は、家庭の会話の中でいじめに繋がる会話をしている可能性が高い。あるいは、子供にけしかけている可能性も高い。いじめなど、どこかで学ばないと出来ない高尚な技術だし、周りを味方につけないといけない行為なので、それなりに政治力も必要となるだろう。全くの素人が出来る技ではない。

いじめと無縁な会話しかしていない家庭で、しかも親と子供の関わりは非常に多い家庭から、いじめの概念が生まれてくるのは考えにくい。いじめと無縁な会話がない家庭でも、親と子供のかかわりが皆無に等しいくらいない場合は別だ。いじめをする可能性も高くなるだろう。

もう一つのアダルトチルドレン

先程、優等生が転じて空気を読み過ぎてしまい、自分を押し殺したまま成長した子供たちをアダルトチルドレンと話したが、もう一つのアダルトチルドレンもあると思う。

いじめの話をしたが、精神が子供のまま大人になった大人のことである。子育ての準備が出来ないまま親になった大人達、または子供が出来たことで精神をお育てする親のレベルまで昇華できなかった大人達のことも筆者はアダルトチルドレンと言っている。

大人になれなかった子供達のことだ。

クレーマーがいわゆるその典型だろう。全てが他人の責任と思っている大人達のことである。人生で起こることは、どういう経緯であれ、最終的に自分の行動を選んだのは自分に他ならない。他人からアドバイスを受けたとして、アドバイス通りに行動をとったとしても、アドバイス通りの行動をとろうと決断したのは自分自身だ。にもかかわらず、アドバイス通りにしたら失敗したからといって、アドバイスをしてくれた人を責め倒す人がいる。そういう人を、大人になり切れなかった大人と言うことにしている。

学校に対する不満もその一つだと思う。筆者は、教員を4年経験した。ここで身勝手な大人を見てきた。学校に不満を言ってこない親は、全く子供の教育に関心がない人と、子供の教育に深くかかわって接している親の2種類。

関心がない親は、子供の将来を気にもかけていない親なので、学校に不満を言うにも、どんな不満があるのかすら分かっていない。これは、子供がかわいそうに見えるが、こういう親の下で育った子供は、一時期非行に走る可能性もあるが、将来的には心配はない立派な大人になることが多い。

問題なのは、親に守られ過ぎた一見すると優秀に見える生徒だ。筆者が子供の頃は、まだ親が教師に対してリスペクトがあった。学校で先生に怒られた話を親にすれば、更に親に怒られるような時代だった。しかし今は、教師に怒られたとあれば、子供が悪かったとしても、教師に対してやり過ぎだ的なクレームをしてくる親が出てきている。

勿論、教員の質も下がったりという例もあるのかもしれない。しかし、体罰は、筆者の子供の頃の方が多かった。今でも、部活で体罰があったとニュースに漸くなるようになったが、筆者の時代は日常茶飯事だった。体育会系の部活をやっていた人で、いわゆる、サッカー部、バスケ部、野球部などは、ひっぱたかれるなんてことはザラだったんではないだろうか。筆者はバスケ部でひっぱたかれ蹴飛ばされ、練習試合でも相手校の生徒がタイムアウトで顧問からひっぱたかれている光景はよく見た。

体罰は、筆者の学生時代からも禁止されていたにも関わらず、先生が怒ってくれることを親はある程度、任せていた時代だった。それが決して良かったとは言わない。中には、よく殴られた体育教師がいたが、殴られても尚、慕われていた教師もいた。子供は、ひっぱたかれたりしても、愛情を感じることもあった時代なのだ。怒れば怖いが、その分、一生懸命頑張ると、凄い認めてくれる教員だった。

そういう教員が今ではいなくなっている。TV番組と同じで、クレーマーが増えたことで、その要求を聞くことが善になり、結局教員はクレームが起きないぎりぎりのところで生徒に接しなくてはならなくなったのだ。

これは、決して日本に限ったことではなく、アメリカでは生徒に触れることがそもそも非常にリスクがある。高校生になれば、そういうリスクを利用して教師に反抗する生徒もいるくらいだ。

学校が本来の学校でなくなり、リスペクトをする場所でなくなったのは、子供のまま大きくなった大人達に起因することが多いと思う。

優等生の挫折

優等生は、上手くいってきたが故に挫折に弱い。筆者は、挫折ばかりの人生だったため、挫折後の再出発が早くなった。しかし、40歳まで挫折がなかった優等生は、一度挫折があると立ち直れない。

立ち直りという競技の中では、まだ予選を勝ち残ったことがないからだ。筆者のように挫折ばかりを経験していると、挫折界の重鎮レベルにまで昇進している。挫折という競技の中ではインターハイレベル、オリンピックに出場できるまでになった。いわゆる挫折アスリートだ。

挫折アスリートは、挫折時代は、落ちこぼれと言われたことだろう。挫折が輝く裏側には、相当数の屈辱がある。その屈辱を何度も乗り越えてきたのだ。屈辱、恥辱、雪辱なしにアスリートはあり得ない。

だから、優等生にならないで欲しいと、世の子供達には言いたい。ましてや自分の子供には、スティージョブズの言葉を送りたい。「Stay hungry, stay foolish」。

ハングリーであれ、愚か者であれ

万人に喜ばれる人間になる必要はない、愚かに映ってもいいから、自分の信念を貫き悔いのない人生を送ってもらいたいと思う。勿論、敵も多く作ることだろうと思う。でも、自分自身であり続けられるなら、信念を貫いて欲しい。敵を多く作り何度も冷や飯を食わされようと、その信念の通りに自分になったとき、人は崇め始める。そういう人間になって欲しい。政治をして昇進をするような人間にはならないで欲しいし、世の経営者やトップは、そういう人間を見抜き、昇進レースから外して欲しいと思う。あなた方が外さなければ、政治家は会社から消えない。そんな未来を見てみたいと切に願う。