叱責と許容な上手いバランス

子供の悪戯と社員のミスは似ていると思う。容赦なく叱責する上司は、家で子供にも容赦なく叱責をすると思う。一方でミスを許容し、上司自身もそのミスから学ばされることがあり、ミスをどうリカバーするかを常に学んでいる上司もいる。

この2択で大きく未来が変わると思う。筆者は、前者で育った。比較的頭ごなし目に「だめ」と言われることが多かった。理由はなかった。親が望まないからダメという理由でしかない。

自分の娘にダメという言葉を使った時「なんで?」といつも返してくる。その時、ふと「なんでだめなんだろう」と思う瞬間があると共に、子供が納得いく説明を子供の理解レベルで説明できない事があることに気が付く。

その時思うのは、「なんで?」と聞かれて、特に説明が出来ない場合は、言うほどダメな時でもなく、寧ろ叱るというより感情的に怒るであることが多いように思う。

本当に愛情をこめて叱るのであれば、恐らく叱る側も正解を見せながら間違いを正してくれると思うし、その一件が終われが笑顔で許してくれると思う。よく厳しい上司は、同じ過ちを繰り返すことを非難するが、いいこととは言わないものの、人間てやっぱり同じ過ちを繰り返すもんだと思う。

同じ過ちを繰り返していないと思っているのは、本人だけだし、叱っている方も、実は人前で一人を叱ることを何度もしていると思う。それ自体が同じ過ちの繰り返しであることを本人は気が付いていない。

なぜ許容が必要と感じたのかというと、自分の娘が色々と主張をしている時がある。3歳ながらに何かを伝えようとしているのだが、言葉足らずで上手く伝わっておらず、大人側はきっとこのことを言っているのだろうと、自分なりに解釈する。その解釈の内容が、やってはダメなことで「ダメだよ」と伝えると悲しい顔をする。

そのあと、今度は泣きながら妻に同じお願いをする。すると、娘が求めていたものは、自分が解釈していたものとは違うもので、寧ろ子供にとっては健康にいいものだった。

以前にも、娘が冷蔵庫を指し、OOが食べたいといい冷蔵庫から出してあげると、走って逃げ去る動作があった。娘は、例えばパンケーキが食べたいと言って、パンケーキを作ると、結局遊ぶだけで食べないことがしばしばある。どこの家庭でも似たようなことはあるだろう。

それと同じ類で、食べたいといって取り出しておいてもらいながら、食べないのかなと思い、「またそうやって食べない」と言おうと思った矢先、キッチンの向かいのバーストゥールに座り手伝い料理を手伝い始めた。いつもこちらの勘違いのたびに娘に謝ることが多いが、これと同じことは職場で往々にして起きていると思う。

部下は、上司の依頼事を着々と進めているのに、メールの返信が何もないと、まるで自分の依頼が無視されていると感じる上司は多いのではないだろうか?もちろん、了解しました、の一言だけを送るのも礼儀だとは思うが、メールや上司からの急な依頼事は、部下の仕事に差し支えるものだ。上司の依頼を優先するが所以に自分の本来の職務を一旦中断しないといけない。

上司が部下に叱責するのは、自分の精神面が理由のことが多く、自分が欲しいと思った時期までに届いていないからとか、電話したのにコールバックがないとか、そういうたぐいのことがきっかけになっていると思う。コールバックして欲しいときは、何のようで至急知りたいのでと、留守電を残すべきだ。上司だからと言って、すぐに掛けなおしてくるだろうというのは、上司の勝手な思い込みだ。

部下の中には、上司の名前が携帯に表示されるだけでもストレスを感じている人も多くいることだろう。それがさっき電話かかってきたときに所用で出られず、あとでかけなおすつもりだったが、あとでかけなおしますのメッセージすら送り忘れていて、数時間が経過してしまってからの電話であれば、なおさら、あ!やばい、忘れてた!的なストレスが生じているはず。

いずれにしても、連絡が取れない、何らかの返信を普通ならするはずだと思っているのは、上司都合で、それが気になるのは、上司が忙しくないからだ。もっと言うと、必ず電話に出られるなら、その相手も手が空いているということだ。手が空いている相手は、電話やメールにすぐに応えるからと言って仕事をしていると思い込んでいるのも、上司都合の解釈。実際に数字を取るのに必死になって客先を回っていれば、タイムリーで出れないのは仕事の証拠だ。

いずれにしても、自分の物差しで相手を測ってはいけないということ。また自分が相手に電話している時には、相手の時間を使わせてしまっていること、急に依頼するのは、相手の仕事を止めさせていることを忘れるべきではない。

また、子供の意図を組めずに間違えた解釈をして叱責した時は、必ず謝罪をすることだ。それは部下や同僚に対しても同じことだと思っている。家庭には、社会生活の基礎の多くが眠っているのを改めて実感した。