「日本人にアルゴリズムは通用しない」

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長瀬氏が言うように、日本は海外の主要国でGMを務めてきたExpatですら、日本へ来ると出鼻をくじかれるという話をよく聞く。

 

私は、2013年から日本で働き始め、それが初めての日本での就労になる。それまでは、米国で大学を卒業後17年ほど現地で様々な職務を全うした。その17年は、日本を外から見てきて、帰国後は中から見てきている。

 

一言で感じたことを言えば、確かに日本市場と国民の購買行動は海外のそれとは違い、非常に独特であり、似ている国も少ないか、ないのではないか、とすら思える。

独特でいることは、製品開発においては、非常にきめ細かい高品質のものを創り上げられサービスの質も世界のトップクラスであると同時に、そこまでお金をかけないと売れない、受け入れられないというデメリットもある。また日本は、未だ英語が普通に話せる国ではない。私が経験した限り、日本人がよく非難する中国人の方が英語圏の文化が身についている。

つまり、日本に何かを持ってくれば、ブランドコミュニケーションに英語をそのまま使うことが出来ず、翻訳という作業が加わる。この作業も質は劣るものの、海外の翻訳会社に依頼をした方が数倍易いのだ。また英語を話せ、なおかつ、ビジネススキルを持った人材を高値で雇わなければならない。

これがフィリピンへ行くとどうだろうか?タガログ語を中心として各島の言語が話されているが公文書は英語、基本的に学校へ通っていた人であれば、英語は普通に理解している。スペインに占領されていた時代もあり、スペイン語もある程度は理解できる。

もっと言うとTVドラマや映画では、タガログ語と英語が混ざっている。日本のように単語で英語が混ざるのではなく、一文章がタガログ語だと思いきや、次の一文章は全て英語というような脚本なのである。

また大学を卒業したし普段コールセンターのようなところで仕事をしているフィリピン人であれば、英語の発音はアメリカ人と何ら変わらない綺麗な英語を話す。一度も海外で暮らしたわけでもない人でも、そこまで話せるのが普通なのだ。

日本は、英語教育が長いにもかかわらず話せないのは、その内容にある。英語を日本語で教える教育では言語は身につかない。英語はもちろん、英語以外の教科も英語で教えるのだ。この時点で、英語ができる数学の教員を探さなければならないため、日本ではほぼこの教育形態は不可能と考えていいだろう。何十年もかけてそういう教育者を育てるのであれば別だが、考えにくい。

この事例が製品つくりにも反映している。日本でグローバル化されているなと感じるのは、自動車が一番しっくり思いつく。

私がいうグローバルの条件は、海外の町のどこにいても、一般の人がそのブランドを見たことがある、知っていると答えられるほど浸透しているということ、現地の人間が現地法人の社長を務めていること、海外の同製品が、現地のニーズに合ったように作り変えられていること、現地でのR&Dがあることなどである。

家電もどこでも見られるほどあるはあるが、スペックやコスト面で海外を向いていないと考えさせられたことが何度もあった。TVは軒並みLGにやられた印象が米国では強い。留学したての1995年は、日本の家電メーカーが普通に沢山売られていた。しかし、帰国を間近に控えた2013年あたりは、日本のものよりLGの方が多く店舗に見られ日本勢は殆ど見なくなった。

液晶の部分がLGのものを使用している国内製のTVは多いと聞くので、その分でコストが上がるのかもしれない。しかし、LGは安く必要最小限の機能しかないように思えた。日本的な考え方をすれば、機能が沢山あることで単価を上げることが戦略になるのだと思うが、海外ではそれが仇となる。どれだけ高性能の機能が付いていても、一般消費者は使いきれないか使う必要性を感じないため敢えて高いのは買わない。また画面の違いも一般消費者には違いが分かりにくい。正直分からない。

また日本製品は非常に壊れにくい信頼性がある。LGは購入して1年以内で壊れた経験もした。しかし、テレビを購入したいと今思った時、多くの人ができるだけ安く買いたいと思うもの。そう思っている人に10年壊れないので、実質1年これくらいの金額で見れるのと同じですという説明をしても、予算が手が届かないところにあるのだから、購入はできない。壊れやすくても今欲しい、という需要を満たしてあげることが急務なのだ。

そう考えると、というよりも、海外の消費者やデベロッパーは、質よりスピードを重視していると思われる。ソフトウェアやゲームなんて、海外産はまずバグがあっても発売日には発売する。その売上を使い、バグ修正のパッチを開発、配信して修正していく治療型生産に対し、日本はいざという時が来てはいけない、という文化があり是が非でもバグがほぼない状態で発売日を迎えたいと思うが故に国際競争に負ける。

食品も同じ。米国で食品の専門商社に勤めていた際、韓国の製品によく負けたことを記憶している。韓国は、もともと内需が日本に比べ少ないため、海外輸出を念頭に開発されていると思う。そう考えた方がよい。なので、日本食品のようなきめ細かさがない分安く仕上がり量も多い。

米国で成功したいなら、日本の味そのままを持ってこようとするのではなく、日本のものを現地の消費者が美味しいと思ってくれる最小限のレベルに調整して、コストを抑え多くを売る方がいい。現に、寿司が流行ったのは、日本の寿司をまねて適当な巻き寿司を作ってきた韓国人と中国人のお掛けだ。彼らの生き延びようとする精神力のおかげで寿司は日の目をみた。それがなければ、寿司は知られることはなかっただろう。

日本の独自性がリスクと感じるのは、日本の製品が日本でしか通用しないものが多いというところ。オンラインゲームが台頭し始めたころ、発売されるオンラインゲームは日本語のため、結局日本でしかプレイされないというオンライン市場だった。海外のオンラインゲームであれば、英語ができる人なら全世界からアクセスしてアクセス数を余裕で稼ぐことができたし、本来あるべきオンラインの姿だった。

生地ある通り、日本ではハイテクではなくリテールでの購入がまだ主流で、そこを利用しないともったいないというのはもちろん。しかし、だからと言って、そこばかりを責めてばかりいては市場は変わらない。

米国にいたとき、顧客に同行してビールを販売しに行っていた。その営業はもう70をとっくに過ぎていた。その人のコネクションの強さを買っていたオーナーが定年を過ぎてでもやって欲しいと切に願いがあり続けていると言っていた。その70過ぎたおじいさんですらタブレットを使って発注していた。逆にいうと、タブレット以外の発注方法を会社が排除しているため、タブレットで発注する以外の方法がない。

しかし、日本だと、少しでも昔のやり方を望む人がいれば、昔の人へ合わせていくやり方が目立つ。これが成長を遅らせている。今の時代、FAXはメールで受信できるが、古い業界だと、未だに紙ベースのファックスでの発注が95%あるところすらある。アルゴリズムを活用するという世の中なのに、ダイレクトメールの方が手元に届く確率が高いというのは、時代があるところで止まっていることを意味する。

NYのレストランを営業で回っていたころ、レストランやバーで全面禁煙という政策が強引に進められた。もちろん反発もあったが、そんな反発も数カ月で収まる。早ければ1ヶ月で収まる。結局、人は慣れる生き物なのだ。慣れてしまえば、なぜあんなに反発したのか、拘っていたのかという気持ちになるほど、慣れてしまう。

日本には、突破力が非常に書けている。しかし、アイデアやかゆいところに手が届くサービスは世界トップレベル。それが日本でしか生かせないことが、もっともったいないと思う。