努力すれば報われる vs 努力で報われるとは限らない

努力で報われるとは限らない

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私の結論は、こちらです。

 

努力すれば報われるには完全に賛同はできませんが、似ている言葉で「継続は力なり」なら賛同します。

 

「努力」は、努力の内容や目的が漠然とし過ぎているから賛同できませんが、「継続は力なり」は、継続していることのパフォーマンスは確実に上がることを示唆しています。

 

その通りだと思います。

 

ほぼすべてのことが人並みにできないけど、ゲームをやらせると、まず間違いなくいい実績を残せる人というのは確実にいます。

 

e-Sportsが注目されてきて、ゲームが得意の人は、ただのお宅のような扱いを受けていた時代がありました。

 

しかしながら、そのような人が大金を動かす世の中になると、その人たちが芸能人のようになるわけです。

 

では、彼らは「努力をしてきた」のでしょうか?

 

正確な答えは、好きなことをやり続けた、が一番正確に近い回答のような気がします。

 

 

努力で報われた経験をいくつ挙げられますか?

正直、私は一つもありません。

 

小学5~6年で、特設サッカークラブというものに所属しました。

 

所属している半分以上のメンバーが、週末にサッカークラブに通っているつわものです。

 

私は、放課後にサッカーをするだけの、ルールを知っているプレイヤーの一人に過ぎません。

 

努力をして、毎日朝練に出ました。

 

練習試合でもスタメンで出るようになりました。

 

リーグが始まると、出場することはありませんでした。

 

サッカーは、小学校卒業と同時に辞めました。

 

中学に入りバスケ部に入部しました。

 

理由は単純で、兄がバスケ部に入っていたことで、先輩も私のことをかわいがってくれたこともあるし、自分も続ければそれなりにやれるだろうと思っていたからです。

 

入部すると現実がはっきりと分かりました。

 

自分が所属したバスケ部は、毎年同レベルの強さを保てる学校ではなく、1年ごとに強い、弱いが交互にやってくる育て方になっていたことが分かりました。

 

不運なことに、私の代は、弱い世代だったのです。

 

入部した時の3年生が、弱い世代だったのですが、すると次の世代が試合に多く出場することがあり、試合慣れをして、次の代がメインになったときに、強さのレベルが上がります。

 

すると、強いメンバーで固められたところに、次の若いメンバーを交代で起用することが殆どなく、次の代は、自分の代がメインになるまで、一度も試合を経験したことがないなんて言うのがざらでした。

 

強い学校であれば、うまく回しているのかもしれませんが、私のいた学校では、うまく全体を回していませんでした。

 

予想通り、私の次の代は強い代になりました。

 

弱い代になると、精神的にも卑屈になる部員もいて、「どうせ俺らは試合にも出れないし、練習する意味なんてない」と考えるようになるので。

 

そう思うのはもっともでしょう。

 

なぜなら、練習=努力、と考えるならば、練習=試合に出る、がその報いともなるからです。

 

この目標のために練習するわけです。

 

試合中の声出しのために練習なんかしません。

 

では、スタメンの人は、どうでしょうか?

 

練習を普通にしていてスタメンが当たり前の人の場合、練習=試合に出る、ではないでしょう。

 

もしかしたら、関東大会出場、全国大会出場、となるかもしれません。

 

では、その両大会ともに出た人の、次なる報いはどこになるのでしょうか?

 

極論を言うと、今バスケを始める子供なら、NBAやB-Leagueの選手として、職業とするところが究極の目標になるかもしれません。

 

私の兄は高校までバスケを続け、それなりに試合では実績を上げてきました。

 

全国レベルではないにせよ、全国出る人も、県大会に進む程度の人達でも、心で感じている苦労や苦痛は同じレベルなのです。

 

その兄が、社会時になり50手前で、「自分はバスケに集中して高校を終えたけど、しんどくても続けた向こうに何があったかと言われれば、何もなかったと今は言える」

 

と言っていました。

 

トドのつまり、NBAに行かないなら、目標達成を感じられないのではないでしょうか?

 

つまり、ミニバスから始めた自分の努力はNBAかB-Leagueの選手にならない限り、社会的にバスケ選手の1個人としては認められない、という真理があります。

 

今でこそB-Leagueは知られていますが、それでもB-Leagueに入っていても、バスケやらない見ない人でも知っている、マイケルジョーダンみたいに認識される人は、ほんの一握りしかいないでしょう。

 

そういう意味では、努力の報いがどこにあるかは、個人差がありまちまちで、年を重ねるごとに報いの内容も変わるので、努力で報われるとは限らない、という考え方の方が、健康的な心理状態を保てる気がします。

 

これは、会社の評価にも言えることです。

 

組織により、評価の仕方が変わるので、何とも言えませんが、私の会社では、相対評価になります。

 

学校の通信簿と同じです。

 

仮に、クラス全員が毎回100点しかテストで取らなかったとしても、AとBとCの評価に分かれるわけです。

 

学校側は、生徒が常に成績が良く、いい学校へ進学すれば、学校の株も暴騰し花が高いでしょうが、実際に全校生徒全員ハーバードに行ける学力があると、現行の評価制度では、評価できないわけです。

 

クラスの中には、成績上位の生徒と下位の生徒が必ずいるもので、下位の生徒程、学校側としては重荷を背負っているように感じているのかもしれません。

 

しかし、冷静になって考えてみて下さい。

 

下位生徒のおかげで、相対評価をつけやすいのです。

 

いわば、下位生徒が犠牲になってくれているのです。

 

それを忘れないでください。

 

それを否定するなら、絶対評価に切り替えて、万年テストの成績が100点であれば、全員に等しくAを上げられる評価をしてあげるべきです。

 

会社と違ってオールAを全員に与えたところで、ボーナスを評価に値する額渡さなければならないなんてことはないんですから、惜しみなくありのままを評価するべきですよ。

 

評価でもう一つ例を挙げるとすれば、芸人です。

 

売れっ子芸人と滑り芸人と大きく分かれているようにも見えますが、滑り知らずの芸人がいるから、ウケる芸人が比較対象になってウケているという見方も間違いではないと思います。

 

全員が、売れっ子芸人のレベル並みの話術があれば、恐らく売れっ子はいなくなるでしょう。

 

その証拠に、アメトークでは、それなりに面白い売れっ子芸人がひな壇に座りますが、漫才やフリートークでの面白さが出ない場合もあります。

 

それは、他と比較されて埋もれたりするからです。

 

人の評価は、必ず比較対象があっての評価にはなりますが、会社の売上成績や学校のテストの成績は、絶対評価でしかるべきだと思います。

 

まとめると、無暗に「努力すれば報われる」と部下や子供に教えると、その人たちの何年もの人生を台無しにすることになりかねないので気を付けましょう。