これからの「距離を置きたい」像

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ひろゆき氏の著書の中では、「遅刻に厳しい人と距離を置きたい」という例が書かれているが、実は筆者もそう思っている。もう一つ言わせてもらうと「誤字脱字だらけだ」と部下を叱責する人とも距離を置きたい。

遅刻をしない、誤字脱字がないことは大事なことではあるので、それ自体を否定しているわけではない。否定しているのは、それに固執しているということ。もっと注意する大事なことがあるでしょって思っている。遅刻や誤字脱字をしてもしなくても、評価の対象項目ではないから、極論、成果主義の現代で、そこに拘り過ぎるのは、物事を難しくしているだけだと感じる。

仮に、会議には10分前に集合、資料をしっかり作成、綺麗な議事録をとる、誤字脱字がない営業マンがいたとしよう。しかし、その営業マンが毎月予算未達であった場合と、悪気はないが誤字脱字はたまにあり、会議には遅刻気味ではあるが、毎月の予算は達成、顧客の情報もかなり懐に入った情報まで持ち合わせている二人がいた時、成果制度を採用している会社としては、どちらの方が成果を上げていると言えますか?

正直、二人とも必要だと思います。しかしながら、前者は適材適所ではないかと思います。数字を取るのが営業の存在意義、文書作成等が上手であれば、内勤に異動させてあげた方が、適任と言えます。会社としては、誤字脱字、遅刻に厳しくする前に、前者の未達に対して厳しくある方が理にかなっています。なぜなら、営業目標を達成することが評価項目でもあるからです。

一方で、後者は、営業の評価項目の優先順位をしっかり達成しているので評価に値すると思います。筆者も人材の管理をしておりますが、評価項目に載っていないことは触れないことにしています。もし遅刻を厳しくするなら、評価項目につけるべきです。月の遅刻を0にする、達成したら何ポイント獲得というようなものです。

古い世代の常識を若い世代に押し付けてはいけない

よくゆとり世代は、これだから困る・・・というような記事を見かけますが、それは逆ですし、ゆとり世代側の立場に立ってみて下さい。

ゆとり世代と呼ばれる方々は、自分が生まれたときには、そう呼ばれる世代として生まれてしまったわけで、選んでゆとり世代に入ったわけではない。ゆとり世代で、学校で教える内容が、昔と比較して軽くなったことも、彼らに罪はなく、それが当たり前だと思い教育をされたに過ぎない。40代の筆者の世代は、学校でひっぱたかれたり、大勢の前で叱責されたり、長いこと立たされたり、部活の最中は水も飲ませてもらえなかったり、今考えればどれもニュースになるようなことを、当たり前のことだと思って育ってきたのです。

当たり前だと思って学んできたことが、実は当たり前ではなかった。ゆとり世代は、若いというだけで、当たり前だと思っていた常識が社会にでて、間違っているとつきつけられており、上の世代は、年上というだけで、ゆとり世代は!と頭ごなしに否定できるのはフェアではないと思う。

筆者が学生の頃は20年以上も前の話。10年前の常識が既に常識ではなくなっているのであれば、当然、現代で非常識なのは、20年前の常識を頭ごなしに押し付けることだろう。

20代をゆとり世代として否定するならば、55歳以上の方々も現代のIT環境に若い世代を頼ることなく使いこなさなければフェアではない。自分達の不得意とするところはやらないと主張しておきながら学ぼうとしないで、若者を育てようというのは矛盾している。子供は親の背中を見て育つように、会社で部下は上司の背中を見て育つ。上司が匙を投げるなら、部下が匙を投げても文句を言ってはいけない。部下の姿に嘆くのであれば、その姿こそがあなたの姿そのものと考えなければいけない。

「自分だけの価値」で生き残る

著書に書かれてある「自分だけの価値」で生き残るというのは、ある意味歴史の長い国からすると難しいように感じるかもしれないが、歴史の浅い米国では普通に行われている。むしろ、アメリカの原点のような気もする。うまい下手に限らず、主張がコミュニケーションの基本にある。

日本は謙遜をする文化があるが、謙遜し過ぎは損だ。昔は、国内だけに着目していればよかったが、現代は全てがグローバルに目を向けなければならなくなっている。SNSのお陰で世界中に自分をアピールできる。これは非常に大きな前進だ。

バイスは未来に向けて先行し、それを若い世代が牽引している。むしろ、発展を妨げているのは、ゆとり世代を否定している世代だ。それは理解しなければならない。

謙遜だけで生きていると、自分の価値が周りと比較して低いという前提で構えている人が増えてしまう。そういう意味では、謙遜で生きるのもいいことはない。自分の価値で生きるというのは、自分のルールで生きるということ。もちろん、法律的なリールの中で作った自分なりのルールということだ。

「面倒くさがり」な人は叱責されたり非難されたりすることが多いかもしれない。しかし、考えてみて欲しい。市場に出回る便利な商品は、「面倒くさい」から生まれたものが多い。フードプロセッサーは、みじん切りが面倒から生まれているだろうし、ガスコンロは、木炭で火を起こすのが面倒、新幹線は、乗り換えを繰り返して名古屋まで行くのがしんどいから来ていることだろう。

社会で成功する人は、「面倒くさがり」を煙たがらず、ヒントとして着目しているはずだ。次のヒット商品のヒントが歩いているわけだから。

次に煙たがられるのは、「常識から外れている」とか「変わっている」と言われる人だろう。しかし、会社の社長や発明家は、常識的で普通の人からは生まれない。非難される言葉の対象になる人が、多くの成功を収めている。

「常識的に考えてありえない」という言葉があり得ない

米国に住んでいた時に「常識じゃ考えられない」というフレーズは殆ど聞かなかった。それに代わるような言葉はあるかもしれないが、各人が「常識って何?」って思っていたと思う。だから、そういう言葉が出てこない。

日本は、何かと「常識的に考えてあり得ない」という言葉を使うが、まず、「あり得ない」という考え方自体があり得ない。何事も1%でも起こり得るからだ。今までに100%起こらなかったこと、または起こりえないことを10個挙げて下さいと言われて、筆者は1つも上げられない。3つ挙げるのも無理だろう。

筆者の妻は外国籍だが、日本に引っ越してきてまず困惑したのが、見ず知らずの人が自分をじろじろ見るという行為だった。もしかしたら、服装がおかしいのかもしれないし、何か普通と違う見てくれに見えるのだと思う、いい意味で目立っているかもしれない。実は、このじろじろ見る行為は、海外ではいい意味の時しかない。

変な格好をしていても、米国だと、「クールじゃん!」と言って話しかけてくるし、見ず知らずのおば様がエレベーターで「今日は暑いですね」なんて声かけてくるのも日常茶飯事。日本は、エレベーターで話しかけた瞬間、ナンパ、または逆ナンと言われかねないし、変な衣装を着て表を歩いていれば、こっそり写真を撮られて、SNSでさらされるだけだ。

常識という概念があるからこそ、外れたものに見える。逆にその概念がなければ、何にも外れない、一つの生き方に見えるだけだ。常識があるからこそ、個性というものが邪魔になるし、個性が面倒なものになってくる。

日本で働き方改革と長年言われているのは、社会自体が一つの枠に国民を収めたいから弊害が起きていると感じている。最初から、その枠などがなければ、相手を否定することもないし、しても自分を否定してこない。

予定通りに未来は動かない

米国にいた時、驚いたことは、稼いだ金を稼いだ分使う習慣があったことだ。それなりに貯蓄をする人はいたと思うが、日本のように万が一の時のために、目的なく貯金というのはあまり聞かなかった。

その代わり、給与の一部は投資口座で運用しているというのは、日本人が毎月貯蓄をするのと同じくらい普通に行われていた。

米国にいた時には、日本の家族に先を考えずに行動するからとよく非難されたものだった。確かに一理ある。先のことは考えて行動しないと、痛い目にあう。しかし、準備し過ぎて20年後に思い描いていた未来がそこにあるかと言えばない。20年前の夢は20年後には違う形となって現実となっているだろうし、形が異なるなら、準備していた計画は未達と考えてよい。

1年以内に起こることは計画していいと思うが、万が一という考えは捨てた方がいい。万が一という考え方は、ごみ屋敷の予備軍といってよい。万が一のお金なら銀行に預けられるが、万が一のものは99%ごみになる。1%あってよかったと思うことはあるものの、それはあくまでも予定していたことではない。結果そう思えたということに過ぎない。

最悪のことが起こることを未然に防ぐのが日本人の国民性なので、万が一という考えは常識の一つかもしれないが、10年万が一でとってあるお金を10年使って生きてきたとすれば、有意義な経験を過ごしただろう。一方で10年間万が一のためにため込んだお金を預けている銀行が破綻をして、預けた多くのお金が戻ってこなくなれば、ただ単に耐え抜いた10年がそこにはあり、失ったお金と一緒にこの先10年もまた耐え続けるのである。

メディアも老後にはいくら必要だ、年金が破綻する、などの不安を煽る報道をやめて、貯金の習慣がなくても老後の生活は問題ないという国の国民を取材して、どのように老後に備えるのが普通なのか、国がどこまでサポートしてくれているからできているのか、などを報道して欲しい。そちらの方がより建設的に身を守れる。

コロナ禍のお陰で国民の意識も変わった。ある意味、いい方向へ変わってきていると思う。特に多くのことで後れを取っていた日本がようやく腰を上げたように思うので、愛発領ではあったかもしれないが、コロナ禍が果たした功績は大きいと感じている。