空気読み過ぎの弊害

筆者は、19~37歳までを米国で過ごし、2013年から日本での社会人1年目を始めている。米国でも12年就労したが、帰国して、また帰国する前からも思っていたがその通りだったことを、リンクの著者はずばり言い当てているので、筆者も経験で感じたことを書いてみようと思う。

日本人は空気を読み過ぎている

空気を読むことは、悪いことではないが、何でも「過ぎる」と害悪になる。筆者は長いこと米国で生活してきたが、帰国して思うのは、言いたいこと、我慢してやりたいこともせずに、調和を保てるよう自分を調整して生きることが、生きずらいと感じることだ。人へ又は組織へ環境へ合わせ「過ぎ」なところが日本の生産性も下げていると感じる。

日本で一番生きずらいのが、住居環境だ。マンションの多い国でもあるので、上下階、隣同士の騒音を気にするのは、致し方ない。筆者も小さいころからマンションでしか育っていないので、夜に掃除機かけない、音が鳴らないように静かに歩く、ベランダでは大きな声でしゃべれない、テレビの音も大きすぎなくなど、庭で花火はだめ、庭でBBQをやれば匂いが隣人の洗濯物について迷惑がかかるからなどと、迷惑を考えれば枚挙にいとまがない。

子供の頃に色々制限されて育った筆者は、大人になって、何かと自分の発言をする前に、自分の中で押し殺すようになった。その繰り返しが功を奏したのか、押し殺した時の辛さを、翌日になれば直ぐに忘れられるような体質になった。辛いことは多々あったものの、それで鬱を患うことなく何とかここまでこれた。

そういう子供時代を、自分の子供にはさせたくないという思いもあったが、何よりも自分が、頭ごなしに静かにしないといけないという注意をしなければならない状況に追い込まれるのが嫌だと感じた。子供は泣きたい時に泣き、動きたいように動き、言うことを聞かない程、子供らしい。そういう思いもあり、戸建てに引っ越した。ただ、この戸建ては、いわゆる、ビレッジという同じタイプの戸建ての集まりの中の一つである。

マンションで気にしていた、走り回ったりするときの音や鳴き声など、外に響くことはあっても、自分の家の壁→外→隣人の壁と隔たりがあるため、窓を閉めてさえいれば、隣人の部屋の中にまで迷惑がかかるほどの大きな騒音にはならない。

しかし、戸建てにもたくさんのクレームがあるので、いくつかご紹介しよう。

ごみ捨てルールへの拘り(分別編)

ごみの分別は、どこでもあり、面倒はあるけれども、決してそこまで悪いことではない。ただ、ここまでの分別は、日本人のように民度が高い国であるからできること。ここまでの分別をルール化して、それに従ってくれる国は他にどれほどあるのかは疑問。よく町中にごみ箱がサリンのテロ以来なくなったが、にもかかわらず、ごみは散らばっていない。これは偏に、ごみを持ち帰る民度の高さ故だと思う。ただその国民の中で、ごみを持ち帰ってくれることを当たり前と行政が頼り過ぎている、と1%でも思っている人はいると思う。

日本人は、調和を重んじる国民性があるから、周りが片付ければ自分も片付けると条件反射のように環境の美化に協力するし、性格的にきれいな環境でいたいと思う人が多いと思う。

しかし、原点に戻ってみると、分別されていなかったごみを処理場で仕分けする手間を国民が省く手伝いをしているということだと思う。し過ぎを強調したい部分は、PETボトルと燃えるゴミを区別するところではなく、PETボトルの包装とキャップを取り除いた形でPETボトルの仕分けに捨てるという言う点。

昔、コーラが瓶で販売されていたころ、瓶を戻せば5円くらい貰えた。ある意味、戻す際に費やした労働の対価+再利用するお手伝いの対価とも取れた。PETボトルをリサイクルに使うなら、PETボトルの分別は

  1. リサイクルの原材料を集めている
  2. 処理場での手間を省く協力をしている

この2つに対して、昔のボトル返却の際にもらえた5円の対価が単になくなっていることに気づく。もちろん、対価が欲しいわけではなく、行政は自分達も含めてこの国民の努力をあまりにも当たり前と取り過ぎてはいないだろうか?

フィリピンに旅行に行った際、コーラなども未だ瓶が目立って売られている。そこには貧民街で育つ彼らのお財布事情も関係しているのだが、瓶は再利用するため返却をするため、新しい瓶を購入する手間が省けているため、安く提供できるのだ。理にかなっているし子供でも理解できる。

これをPETボトルに置き換えてみると、リサイクルで回収→原材料費が多少浮く→再利用できた品を販売→利益となっていると思うのだが、コーラの瓶と異なるのは、PETボトルを購入した人とリサイクル品を購入する人はイコールではない。瓶の場合は、飲んだ人が飲んだボトルの数だけリターンがあるが、PETボトルは日用品へ、アルミ缶はなべ、フライパンなどのアルミ製品に変わるため、その日用品やアルミ製品を使わない人からすれば単なる献上となる。だからこそ、各家庭で分別において、ラベルをはがしキャップまで別に取って捨てさせるのは「過ぎ」なような気がする。

 

ごみ捨てルールへの拘り(回収日編)

回収日でなければごみを出せないというルールに筆者は、それが正しいのかどうかに未だに悩ましい思いをしている。

筆者が子供の頃、マンションで暮らしていた。その時は、マンションの外にダストボックスと言われる鉄製のごみ入れ容器があり、ごみを捨てたい時にダストボックスに入れるだけだった。分別も粗大ごみを除きなかった時代。これであれば、家にごみもたまらず、ごみが出れば捨てに行けたのだ。

分別が始まり、回収日に指定の場所に捨てに行ってください、というルールはあるにせよ、マンションの場合は、ルールを破ることになるかもしれないが、ごみが出た日にその回収場所に捨てに行っている人が多い。外に捨てない限り、密閉された部屋の中であれば、猫やカラスに荒らされることもない。しいて言えば匂いが回収日までにこびりつくことくらいだろう。

筆者が今住んでいる戸建てのビレッジでも、回収日はもちろん決まっているが、これも外に野ざらし生ごみを置くことはなく、大きめのボックスの中へ入れる。缶や瓶は、外に置くものの、人の手で荒らされない限り、猫やカラスはまず見向きもしないだろう。

しかし、このビレッジ、前日夜中にこのボックスへごみを捨てる人に対してのバッシングがやまない。どこのマンションや住宅に引っ越しをしても、住民が100%ルール通りにごみ捨てしてることは非常に少ない。

  1. ごみは密閉された部屋の中
  2. 猫もカラスも入り込めず、人の力でない限りは荒らされない。
  3. 回収日となるまで家に匂いが充満するごみをキープしておかなければならない

この状況下で一日早くしかも夜に出したことがどう影響するのかを知りたい。このクレームを言っている人は同じ住人で、犯人捜しのためにごみ捨て場にカメラを設置したいと、管理組合の委員長にまでなって申しているのだ。その裏で、このビレッジでは車が数台盗難にあっている。ゴミ捨て場より、ビレッジ全体を監視するカメラを設置して、車両盗難の犯人を捕まえた方が全然住民のためになる。

このビレッジでは、月曜日は燃えないゴミの回収、火、金が燃えるゴミの回収となる。月曜日は燃えないゴミが入っているので、火曜日の燃えるごみを入れると燃えないゴミが入らなくなる可能性があるため、入れてはいけないのは理解できる。しかし、ごみの回収は月曜の朝で、その回収が終われば火曜日の燃えるゴミ回収までは、何のごみも入らないのである。それを火曜の朝になるまで入れてはならないという。もっとひねくれたことを言うと、夜中の12時を回り翌日火曜日になっていても文句を言うのだ。

夜中に捨てに行く人の味方をするわけではないが、理論的に火曜になっているのだから捨ててもいいわけだし、夜中の1時に捨てようが早朝4時に捨てようが同じことだと思う。

ルールは、あるに越したことはないが、全容が分からない人がルールを先に知ってしまうと、頭ごなしにその通りにしない人は悪に見られる。

海外ではなぜ戸建てのビレッジでこのようなクレームが起こらないのかというと、ごみ収集車が一軒ずつ回りごみを回収していくからだ。住民は、回収日まで裏庭の大きなごみ箱にためておき、回収日になったら家の前に移動する。すると収集車がごみを持っていき空のごみバケツを置いて去っていくという仕組みだからだ。普通に考えてシンプル。日本は、A~Zまで国民に甘えすぎていると思う。

お店(レジ編)

店舗で見かける丁寧接客。お客様は神様ということで、非常に丁寧だ。しかし、レジで丁寧が故にお会計が終わっているけれども、綺麗な袋詰めなど、気を回し過ぎて、後ろに何人もの神様が並んでいることは二の次になっている店舗を見かける。

ラーメンなど美味しいものを待つ人とは違い、物販において購入するものが決まってレジの順番をまつ神様達は、並んだ先に「こんなに美味しいなら並んだ甲斐があった~」なんてことは決して言わない。早く買って帰りたいのだ。そこを分かって欲しい。

丁寧に接客する空気を読めるけれども、読み過ぎて後続神のニーズを満たし忘れている。

よくお待たせ致しましたと言われるけれども、マニュアル通りのトーンが悪びれていないように聞こえるのは、筆者だけではないはず。正直、待っている神様の立ち場としては、他人行儀な言葉遣いはいいから、「本当にごめんなさいね。待たせてしまって。私も後ろにいて気が付かず~」「いえ、大丈夫ですよ」「いや、そんな本当に申し訳ないわ~」とカジュアルに接せられた方が温かみを感じる。

お店(品揃え編)

ここでは、スーパーの品揃えにおける空気の読みすぎをお伝えしたい。レジ編と同様、スーパーには様々な神様が訪れる。しかしながら、最近神様として思うのは、自炊よりお弁当買った方が安いのではと思う瞬間があるということだ。

レタスが1つ298円で売っている。ごくたまに98円。お弁当セクションには、298円で大きな家族4人分食べれるサラダのセットが売っている。それを見てしまうと、自炊の方が圧倒的に安いとは神様は到底思えないのだ。しかも、そのサラダセットがかなり美味い。店が手間をかけて298円なら自分の労働力をお金に換算してもサラダセットを買った方がお得だと思う。

最近では、自炊は、料理が好きなひとのためにあり、決して家計が助かるからではないと思う。近くのスーパーは、果物もそれなりに高い。近くにある畑の直売はすべてが100円でそちらで買った方がいい。でも毎日欲しいものが売っているわけではない。

ここでスーパーのバイヤーに言いたい。スーパーのブランディングのために高品質で高価なものだけを売りたいのは分かる。でも、もしリンゴと人参のジュースを毎日朝に作って飲みたい神様がいたとしたら、そのニーズには答えられない。傷物コーナーと区別して安いものを置いてくれれば、決してブランドの毀損にはならないし、寧ろ幅広い神様のニーズに応える良店としてあがめられるだろう。

そなたたちは、ここぞという窮地に神頼みをするであろう。傷物を売ってくれれば、質を気にしない神様のニーズも満たせるし、利益にならない価格でジュース製造メーカーに売りたくないと思っている農家を助けることにもなろう。この二種類の神様が救ってくれるはずだ。傷物の野菜や果物は、傷部分を切ってしまえばなんてことない。野菜が高騰しているけど、本当に収穫量が少ないからなのか、お財布がかつかつになってまで、高品質を買い続ける神様はそう多くはないはず。神様だって同じ神様なんだから。サービスの良過ぎも「過ぎ」たことで弊害。ちょうどいいのがバランスがとれていて心地いいのです。

花火ってどこで出来るの?

最後に自分が子供の頃に楽しんだ、手持ち花火、お店で売っているけれども、近くの公園は全て花火禁止。いったいどこでできるの?という疑問をもって早いもので7年目くらいになる。苦情が色々あるのは分かるけれど、クレームを言った人の意見が正として正されていく社会の流れには疑問を感じる。現にテレビもラジオも何もかもがつまらなくなった。

つまらなくしたのは、当時何でもありのTV番組を享受していた世代。自分が子供を育てるようになって、TVの影響で子供が変な言動い走ると言いたいのは分かるけれど、もしその道理が通るなら、当時何でもありのTV番組を見ていた人は皆犯罪者になっているか、飛んでもない非常識人と呼ばれることだろう。しかし、そうはなっていない。

TVやラジオ、たばこ、何でも規制させたいのは、自分達が注意したり教育したりしつけしたりする労力を外にぶつけているだけであるように感じる。目の前で何を見ようが起きようが、親がしっかりと子供と同じ目線になって言って聞かせ納得すれば子供は理解する。頭ごなしに、ダメなものはダメと言われて、腹が立ったのは今の親が子供の頃にも経験したはず。自分が嫌だと思ったことは自分の世代で終わりにしよう。